2017年6月22日木曜日

【陰隲録】功過格表104 中途挫折の因縁 三十善 冤罪を救おう⑥




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功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

三十善に相当する

◯一人の冤を白にす。





ミニ司法


冤罪含めて、罪と罰は司法当局が決定します。
つまり、警察と裁判所です。

この、司法権力は、国家権力の専官事項です。
つまり、民間自由化の流れにあっても、警察や裁判所は民間に委ねることはまずありません。

理由は簡単で、暴力機構を国家権力以外が持っていると、秩序の妨げになるからです。
地方の権力者がそれぞれ私兵を持っていると、下手すれば、独立されかねません。

この狭い日本国内ですら、都道府県レベルに分かれて戦国していたくらいです。

暴力機構の分割は国家の分裂に等しいのです。

もっと言えば、権力とは暴力と言い換えてもいいくらいです。
韓非子を辿るまでもなく、暴力無き権力はありえません。

で、以上が建前なのですが、何事も陰陽、つまり裏と表があります。
実際には、暴力は軍事レベルの暴力はともかく、それより下位の暴力は、結構、分割しています。

日本に限らず、世界中の国の地方では、地元の権力者が警察やヤクザなどの暴力機関を私兵化しているところは珍しくもなんともありません。

そして、暴力とは権力であるとする公式に従えば、国家よりも下位のレイヤで、サブ国家が発生しているということです。
つまり、サブの司法が存在していることです。
我々は司法というと、公共(国家レベル)の存在だと思いこんでいますが、実際は、より分割されたミニ司法が存在しており、我々は、そういう信用性の低い司法に身を委ねる可能性があるということを、この話は示唆しています。


フラクタル構造


近代になる前は、日本は藩、つまり今の都道府県レベルの国で構成されていました。

戦国時代でも幕末でも、実際に藩同士で戦争していたくらいです。

しかし、実質的な庶民の意識は、国といえば、自分が住んでいる村のことです。
一生、生まれた村で過ごし、そこで死んで行きました。

村単位の国があるということは、司法も村単位であると言うことです。
即ち、警察などの捜査機関や裁判所などの法廷機関です。
村単位で、犯罪者を裁いていたのです。

村単位で裁くということは、当然、犯罪者に対する罰則があるということです。
軽いものでは金銭で償うレベルから、村八分からリンチや奴隷として売り払われるレベルまで様々です。

極大の世界と極小の世界の構造が同一で、かつ極小の世界にも極大の世界の情報が詰まっているという、フラクタル構造や素粒子の世界の話は、よく超常的な現象の説明の際に言われます。
特に、般若心経の本にはよく出てきます。

要するに人間の権力構造は、国家レベルがメインですが、そのサブカテゴリのレイヤには、同一の権力構造が、まるでエクスプローラーのフォルダのように、入れ子になっているのです。




このサブフォルダの、最小単位では、家などが上げられます。

今でこそ、戦後のゆるい家の時代ですが、一昔前までは、およそ虐待など日常茶飯事でした。
もっと言えば、虐待という言葉すら無かった時代です。
国家の非道な統治と同じような家単位の権力構造があったのです。

厳密に言えば、今でも国家の悪逆非道があるのと同じように家単位でも今でも、同様の非道があります。
また、国家司法に冤罪があるのと同じように、家単位の司法でも冤罪があります。

どんなに時代が下っても、これらの根絶はまず不可能です。
家での冤罪は虐待にもリンクしますが、家単位までの監視は現代文明では不可能です。


弱肉強食が基本の、この六道の生命環境では、およそ何処に行っても完全に、危険性から逃れられません。



早期発見



そもそも、なぜ冤罪が発生するかという、根源的な疑問はまた後にやりますが、大事なのは、このゆるい時代の国家だろうが中間規模の組織だろうが、小規模の組織だろうが、冤罪は容赦なく発生するということです。


それは、災難と同じように、こちらの善悪は関係ありません。
自動車事故と同じです。
何の準備もなく被害に合うことが人生にあるのです。

自動車事故は運動神経を鍛えれば避けられないことはありません。
しかし、運動神経を鍛えても、住んでいる都市への隣国の核ミサイルは避けられません。

前回、「凶を避けられぬは未熟者」と言えるような達人レベルに仕立てるという話をしましたが、達人になる前に、殺されてしまえばそれも叶いません。

以前の記事で、強者の条件の話がありました。



【陰隲録】改過㉑ 貴様の罪はその血で

贖え!(in 献血ルーム)


村上龍の政治経済小説に、「愛と幻想のファシズム」という名作がありますが、そこで弱者と強者の分類として、面白い見方がありますので引用します。

猿は本来ならば増えすぎて滅ぶのだが、ポピュレーション調節に三つのことが作用した。一つは病気だ。猿ほど多くの病気にかかる動物はいない。二つ目は、子殺しだ。新しいリーダーが、以前のリーダーの赤ん坊を殺すのだ。三つ目は、殺し合いだ。人間は猿から進化したのだから、強者の条件はそれだけで充分なのだ。すなわち、子供の頃殺されずに済んだという運、病気に打ち勝つからだ、殺し合いに生き残る力、その三つがないものは弱者なのだ。

要するに、運なのです。


達人になるにしても、この輪廻からエスケープするにも、それまでの準備期間にやられてしまえばどうしようもありません。
百獣の王のライオンも、子供の内に襲われれば、ひとたまりもないのです。

何でもそうですが、準備段階で潰されると、どうしようもありません。
昔は、この運命は「中途挫折の因縁」などと言っていました。
※戦前からある概念ですが、有名にしたのは、オウムの元ネタの阿含宗の桐山靖雄です。

何かを成し遂げようとする時に、成功しない因縁ということです。
何も知らない子供の内でしたら、もう自分では手の施しようが無いのですが、幸い、このブログの読者の皆様は、このブログで陰徳の存在を知っていますので、この中途挫折の因縁をキャンセル出来ます。

弱小の内に潰されるかどうかの問題は、陰徳で解決しましょう。



















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