2017年6月25日日曜日

【陰隲録】功過格表107 情と義理を秤にかける 所詮この世は浮世の地獄 三十善 冤罪を救おう⑨





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功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

三十善に相当する

◯一人の冤を白にす。







冤罪は無い


冤罪を何とかしようという話の途中で、空気を読まない発言でなんですが、実は、世の中には冤罪という物は存在しません。

少なくとも、無実の罪という概念はこの宇宙には存在しないのです。

共謀罪が出来たばかりで、治安維持法の再来だと、善良な市民が怯える昨今にリアルタイムでなんですが、実は、古今東西の人類の歴史で、冤罪というものは存在しないのです。

どんな独裁国家においても、地方自治の賄賂まみれの官憲においても、権謀術数渦巻く、後継者争いにおいても、一切の
罪と罰において、およそ冤罪と言うものは存在しません。

もちろん、痴漢冤罪だろうがなんだろうが、同様です。
世界に冤罪というものは存在しないのです。

そんな馬鹿な!と思われる方もいらっしゃるでしょう。

しかし、因果応報の法則からすれば、それが真理なのです。

少なくとも、豊河が捕まった時以外は、世界に冤罪というものは存在しないのです。

全ての司法は公共であろうがマフィアの私刑(リンチ)であろうが、全ては正当な行為なのです。


理由


この意味不明な主張は、実は、適当に豊河が言っているのではありません。

因果応報の法則からの論理的応用です。
つまり、こんなアホなことを言っているのは、豊河ではなくてインド人です。(責任転嫁)

では、一体全体、どういうことでしょうか?

これは、別に難しい話でもなんでもなくて、単なる因果応報の話です。

原因があって結果が在る。
特に、過去に悪業を為したら自分に悪果が返ってくる。
反対に善業を為したら自分に前果が返ってくる。

この単純な法則です。

陰徳というのもこの考えに基づいたもので、こそこそと善事をすれば、運が良くなるという因果応報を逆手にとった手法です。

要するに自業自得ということです。
全ての責任は自分に有ります。

全ての現象に原因があるならば、当然、自分の吉凶禍福にも原因があります。
特に、冤罪などという物に至っては当然です。
過去の自分の悪業が原因なのです。

要するに、過去において、自分が犯罪をしたにも関わらず、上手く逃げ延びた。
または、他人を冤罪に陥れた。
そんなところでしょう。

因果応報の原則に従って、それが現世で自分に返ってきた。
ただ、それだけのことです。

因果応報の原則からすれば、冤罪などというものは存在しないのです。

別に冤罪に限ったことではありません。
人間は、自分が不幸にあった時は、
「何で自分だけこんな目に!」
と憤りますが、単純に自業自得です。

因果応報という冷徹な法則の前には、一切の不幸は、身も蓋も無いのです。
天に唾すれば自分に返ってくる。
ただ、それだけのことです。

原因と結果までの、タイムラグが長いので、一見関係無いように見えるだけのことなのです。


矛盾


さて、この無茶な理屈は、一見正しそうに見えますが、かなり無茶な理屈です。

そもそも、因果応報思想は、突き詰めるとインドのカースト制度になって凄まじい差別理論になるという話は何度かしています。

現在の吉凶禍福の原因が、過去にあるという論理が因果応報です。

しかし、それでは、どう考えも現状の吉凶禍福の原因に覚えがない場合や、何より、生まれによる格差が説明出来ません。

その結果、どうしても前世の概念を仮定せざるを得なくなってしまうのです。

さらに、現世で派手に悪行三昧をやっていた悪人が大往生した場合や、善人が報われずに死んだ場合の応報が説明出来ないため、来世を想定せざるを得なくなるのです。

結果、因果応報理論は、無限に続く、前世と来世の連鎖を想定せざるを得なくなってしまいます。
これが、輪廻転生です。

その転生には、業によって環境の吉凶禍福があるため、天国のような結構なところから、地獄のような悲惨な環境まで様々です。
もちろん、人間界の現世だけでもカルマに応じて、様々な環境が用意されています。

この理論は、このブログのように善業を促進させる効能があり、さらに、悪業を抑止する効能もあります。

しかし、言ってしまえば覚えのない前世や来世を勝手に想定されてしまうのです。
低い身分に生まれたり障害や冤罪を食らったからって、前世で悪行を為したと勝手に認定されてはエライ迷惑です。

さらに言えば、冤罪は無い、全ての司法の刑罰は正しいという結論のように、明らかに、現世の社会的矛盾、それも悪に対する容認や、権力者に対する反乱の芽を摘むという結果になりやすいのです。

インドのカースト制度内にいるインド人の思考が正にそれです。
彼らの思考方法は、不幸は自業自得なので助ける必要も身分制度も辞める必要はない。
こういう考えです。

それどころか、人助けは悪なのです。
勝手に本人の了承も得ずに助けたら、本人にとってカルマの解消をする機会を奪ってしまったのです。
もちろん、助けた人間は徳を積むでしょう。
しかし、それは、助けられた側の被害(カルマ解消の機会損失)の結果なのです。

人助けが悪。陰徳が悪という凄まじい論理矛盾を因果応報の原理は内包しています。


思考放棄


ハッキリ言って、この論理矛盾は、今のところ解決出来ていません。

何しろ、因果応報は、開運の白眉である陰徳の母体原理です。
いわば陰徳のスポンサーなのです。
無碍には出来ません。

因果応報が時折このような論理矛盾に陥るのを、見て見ぬ振りをする情けが豊河にも存在しています。
(単に思考放棄しているだけですが)

まあ、そのうち何とかなるでしょう(楽観的)。たぶん。
きっと、世界のどこかにいる高知能で、徳の高い人が何とか解決してくれます(他人事)。

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