2017年6月26日月曜日

【陰隲録】功過格表108 世界は一つだけの花 三十善 冤罪を救おう⑩





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功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

三十善に相当する

◯一人の冤を白にす。







罪と罰



前回の話をもっと敷衍してみましょう。

冤罪は無いという意味不明な論理でしたが、さらに言えば、そもそも罪と罰そのものが、世界には存在しない可能性があります。

元々、因果応報は、原因と結果の法則です。
何かしらの原因があって、結果が発動する。
そこには、科学の法則のように、人間的な人為は介入していません。
物理的な作用反作用の法則と同じです。

よく、祈祷が聞かない言い訳として、依頼者の功徳が足りないから神仏が動かないという言い訳をよく坊主や霊能者は言いますが、単なる言い訳でないとすると、神仏は依頼者の功徳に依拠する、居ても居なくてもどうでもいい存在なわけです。

まあ百歩譲って、功徳(陰徳)という原因から実際の救いの結果の中間の媒介者としての、存在価値はあるかも知れませんが、功徳(陰徳)が少ないものは救ってくれない無知無能な存在が神仏と言えます。

話を戻すと、罪と罰というのは、単なる現象に対する、人間のネガティブなレッテルであり、善因善果であろうと悪因悪果であろうと、突き詰めればただの原因と結果の法則があるに過ぎません。

※人間はただの因果律の網の結び目に過ぎないのではないか?諸法無我ではないか?という議論は以前に記事にしています。


要するに、人間相互の関係性の中で、ポジティブな物とネガティブなものを分けていますが、どっちも因果律という観点では同じものです。
違うノード(網の構成単位の点)同士の因果の関係性なだけです。

そこにあるのは、善でも悪でも、罪でも罰でもなく、ただ単に関係性の法則があるだけです。

マッチを擦れば火が起こるのと一緒です。
ただの自然界の科学的な法則に過ぎません。



オンリーワンにならなくていい


しかし、何事にも原因と結果の法則が適用されるのなら、そもそも、なぜこんな法則があるのかという、原因が存在するはずです。

因果応報というものがなぜ存在するのか?

正直、法則の誕生理由は不明です。
しかし、なぜ発生しているかはわかります。

自分の他に、他者がいるからです。

考えてみれば、当たり前の話で、善行にしろ悪行にしろ、自分が仕掛ける行為の対象がいなくては、因果応報は発動しません。

自分が殺される因縁は、相手を殺してこそ初めて起動するのです。

要するに、因果律とは、相手が居てこそ初めて成り立つゲームなのです。
囲碁でも、将棋でも、格闘技でも武術でも、恋愛でも何でもかんでも相手がいなければ始まりません。
相手がいてこそ、全てはそこから始まるのです。

相手がいるということこそ、因果応報の絶対条件です。

では、なぜ自分以外の相手がいるのか?

世界に自分一人だったら、別に因果応報もへったくれもありません。
世界にたったひとつだけの花ならぬ一人だけの人間だと、因果も働きようがありません。


自分の他に他者がいることこそ問題の根源ですが、なぜ自他の区別があるかと言うと、色々、説はありますが、今回、ご紹介するのは、宗教業界ではわりとポピュラーな説です。

一つから分裂した考えです。


過去

現代人は、単純な単細胞生物からより複雑な多細胞生物へという進化論を知っているので、この説は奇妙に聞こえます。

しかし、この汎神論的な考えは、古代ではほとんどメジャーとも言える説です。
東洋的な考えと言えますが、西洋でもこの手の考えは結構あります。


一つから分裂した考えと言うのは、大元に巨大な完全な存在があったという考え方です。
善も悪も強も弱も男も女も、全部収納している大きな完全体です。

まさしく、これが全知全能。
完全情報を持つ、絶対神です。
西洋の一神教の絶対神と違うところは、善も悪も全部内包しちているからです。


全宇宙そのものであり、貴方も私も全てこの一部です。

陰と陽というお互いに矛盾する概念を一つに収納した存在です。

易ではこれを太極と呼びます。
太極拳の太極です。
陰陽に二分する前の混沌の海です。

全てが詰まっており、吉凶禍福も時間も空間も全部畳み込まれています。

世界が未分化する前はこれだったと、古代人は考えていたのです。
神話にはこの象徴がよく出てきます。
まだ神や人間が出来る前の、ドロドロの混沌の海です。

この混沌の海は、万物を生み出した母で、胎内の子宮も象徴します。
一神教以外の多神教は、この混沌の海に還る胎内回帰願望があることが多いのです。

その意味で、古代の象徴体系は、過去に回帰する思考方式を持っていると言えます。

易でもタロットでも、混沌の海、はじめの「一つ」から分裂した思考法です。

一を分割すれば陰陽の二つになります。
陰陽の過去未来の間をとれば三つになります。
陰陽の循環の間をとれば四象や四大の春夏秋冬の4つになります。
同じように、五行でも八卦でも十二宮でも、いくらでも世界は分割出来ます。
二乗していって64卦くらいまで分ければ世界の現象は大抵当てはまります。

実際に世界がその数に分割されているのかは重要ではありません。
初めに世界が一つであり、それを特定の数で分割しようという思想の元に成り立っているのです。

易でもタロットでも古代の思考法はそういう考えです。
めんどくさければ、陰陽の二元論だけでも、世界は大抵、説明できます。
実際に、今目の前にある、PCでもスマフォでも中身は、オンオフのデジタルの陰陽二元論で成立しています。

そして、その分割された世界は、一つの世界に比べれば足りない不完全な物です。
そして、完全な一つの世界があるのですから、一つに戻るのが理想です。

もっと言えば、世界の不幸の原因は、完全なる一からの、分裂した状態がメインです。

そもそも、自分と他者がいることこそ、諸悪の根源です。
分裂しているからこそ、殴ったり殴られたりするのです。
で、因果応報の原理で、自分にも返ってくる。

実に馬鹿馬鹿しい話です。
世界平和の解決法は、人類の人口を一人以下にすることだというジョークは実は、相当な叡智を持っています。

他者がいるからこそ、人は憎しみ合い、奪い合い、殺し合い、騙し合うのです。

自他の区別が無ければ、人は苦しみません。

自分の体と他の区別が無ければ、病気も怪我も美醜も関係ありません。

自分の所有と世界の区別がなければ、富も貧困も格差も卑賤も関係ありません。

他人の足をいじってもワシは痛まない・・・!と兵藤会長のセリフも無効化します。

この条項のテーマの冤罪どころか、罪と罰すら不要になります。

全てが一つならば、自他の区別がないため、因果応報は起動しないし、諸行無常も諸法無我も一切皆苦もありません。
涅槃寂静も無いのです。

まあ、厳密に言えば、昔、一つだったのに分割した「前科」があるので、あまり信用出来ませんが、とりあえず理屈では問題なさそうです。

この根源の混沌の海への回帰は、昔からの宗教の理想の到達点の一つです。
古代の地母神信仰にからみますし、東西の神秘主義はこのパターンが多いのです。
※悪魔崇拝として叩かれることも多いのですが。

こういう汎神論的な境地は、一元論とも言われています。

このテーマは恐らくこれからもちょくちょく話題に出て来ると思いますので、要注意です。
空の思想とも微妙にからみます。




長くなったので続きは、次回にまわしましょう。









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