2017年6月5日月曜日

【陰隲録】功過格表87 灰燼と化せ 冥界の賢者 七つの鍵を持て 開け地獄の門! 三十善 無法者を教化しよう⑩




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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。

【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】のシリーズ記事一覧はこちら




功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

三十善に相当する

◯一人の非為人を勧化し行いを改めしむ。






無限の住人

家畜は、畜生の一種です。
畜生というと、通常、舌打ちに使われますが、六道で言うところの畜生界です。


文字通り、怠惰や無知蒙昧な自由意志の無い人間が行くところです。
つまり、畜生のような人間が行くところとされています。


しかし、極端なことを言えば、その意味で、人間は、全員畜生道の住人です。


愚痴や不満の無い人間はいません。
怠惰や無知蒙昧でない人間はいません。
他人に依拠していない人間はいませんし、
何らかの条件に隷下していない人間はいません。


人類は日本人でなくても、家畜人ヤプーなのです。



まあ、もっと厳密に言えば、これは畜生道だけが問題なのではありません。
他の六道全てです。
六道全ては、現世の人間のレベルを分割した物に当てはまります。


よく、六道輪廻は、人間の心の段階と言われます。
死後の世界ではなくて、生きている人間の心なのだと。

生きている人間は、天界から地獄まで、心を変化させます。
仏から鬼まで、目まぐるしく変わるのです。

天界
人界
修羅界
畜生界
餓鬼界
地獄界

環境と対象により、ころころ変わるのです。
天国に行ったり地獄に行ったりするのです。

そして、現世の心の状況と行った業(カルマ)により、来世の行く先が決まります。

慈悲と感謝と善業を積んでいれば、天界に行くでしょうし、
闘争心ばっかりだったら修羅界に行くでしょう。
他の世界も同様です。




ある意味、自分心の状態そのままの世界に行くので、その意味では自由な世界です。
家畜になるか、人間になるか、天人になるかは、自分が選べるのですから。

天の世界に行きたいならば、天人の心と行動をすればいいですし、
地獄に行きたいならば、地獄の住人の心と行動をすればいいのです。


因果応報は、自業自得。
自己責任論の究極の論理です。
上に行くにも下に行くにも全ては自由なのです。
そして、永遠にこの六道を周り続けます。


強いられているんだ


一般に、因果応報は自己責任の世界です。
天国に行こうが地獄に行こうが、完全に自己の過去の業(カルマ)によるのですから。
しかし、この一見自由に見える自己責任論は、何度も言うように、実際は首をかしげます。


その理由は簡単です。
人間は、選択不可能な環境や状況にいることが、大半だからです。



例えば、欲望の心に満ちていると、餓鬼界に堕ちると言うパターンを考えてみましょう。
しかし、欲望がよくないと言うのは、衣食足りた状態でこそ言えることです。

途上国に生まれ、食料が無い環境だったり。先進国でも貧困だったら、どうしようもありません。
飢餓の状況と心境のまま、死ぬしかありません。

この状況で死ぬと餓鬼界一直線です。
要するに今世で生まれた環境の時点で、来世まで既に決定しているのです。
こんな理不尽なことがまかり通っているのです。



また、年がら年中、戦争を強いられる環境に生まれれば、闘争心のまま死ぬしかないでしょう。
この場合も修羅界に堕ちます。


このように、因果応報で考えられている、
来世の転生や、善悪の業の発生は、
生まれやその場の環境にかなり依拠します。


要するに、単純に、
現在の善悪の行動→応報や来世。
で考えられている現在と未来の因果律は、怪しいのです。

すでに「行動を決定する環境」に生まれた時点で、
善悪の行動を起こす前に、ある程度、未来が決まってしまっていると言うことです。



人間は社会的動物なので、環境によって、善悪の行動をするかどうかは決まってしまっている。
このため、少なくとも、現世だけの自己責任とは言い難いのです。


恵まれた環境



テーマである無法者の教化も同様です。

親が無法者で、周りの環境も無法者しかいない環境だったら、
無法者になるしかありません。

それ以外の職業(無法者は職業なのか?)があると言う情報が無ければ、
当然、それになるしかありません。



これは、因果応報の原則、つまり開運のための陰徳が、
「自己責任や自由意志の陰徳への選択が出来ない状況」
だと、実行が難しいことを示しています。

元々、六道の人間界以外の世界は、成仏しにくい場所だと言われます。

畜生道に生まれて、自由意志どころか知能すら無い生物に生まれたらどうしようもないからです。



今、このブログを読んでいる皆様には関係の無い話ですが、
縁の無い人間は、陰徳により開運出来るという情報さえ、得られない人が人類の大半です。

さらに、人間以外の世界の六道の生物は、その生存環境の酷さから、陰徳どころではありません。
※ここらへんのテーマはいずれ詳しくやります。


一般に言われるような、現世の行いが来世を決めるという話は、正確ではありません。

過去世の行いが現世の環境を決めてしまう。
それが現世の行動を決め、来世を決めてしまう。

現世の行いが、来世どころか、来々世、もしくはそれ以降も、決めてしまうのです。
要するに、過去世→現世、現世→来世などの、一回の世で終わりでなく、業が、連鎖してしまうのです。

生まれた環境が悪ければ、育ちも悪くなり、結果、行動も悪くなります。
陰徳が積めず悪業を積んでしまいます。
そうすれば、当然、来世も同様に悪くなります。

そして、同じことは延々とループします。
先祖代々のループと前世来世のループが二重で、悪業からなる不幸でどんどん落ちていく、デフレスパイラルです。



デフレスパイラル



要するに、何が言いたいのかというと、
「悪業をしても大丈夫。その分だけ不幸(や陰徳)で相殺すればチャラになってやり直せる!」
と言う考えは危険だと言うことです。



悪業の結果、悪趣(人間界でも他の六道でも)に堕ちると、環境のため、善意や善業をしにくいのです。

その理由は、単に環境が悪事を推薦するような環境というだけではありません。
闘争を誘発するような環境だからです。

悪業は未来において、自分への不当な不幸を招き寄せます。
ところが、人間はそれに反発します。
誰しも幸福になりたいからです。
しかし、その反発は他者の排除という形で実施されます。

人間は、社会的動物であると同時に、生存本能がある動物です。
肉体、財産、社会的地位、名誉、愛する隣人などに、不当な攻撃を加えられると、激怒する性質があります。

悪への正義の怒りという、美辞麗句で飾られますが、
これは、普通に怒りのカテゴリで括られる、修羅道の世界です。

そして、修羅道と言われようが、自分の正義のために、不当な圧力には反撃するのが人間です。
そして、正義の名の下に敵を成敗して、怨嗟と復讐のループになり、また悪趣のループに陥ります。

復讐や正当防衛が悪いということではありません。
それをせざるを得ない環境にいる時点で、すでにアウトなのです。





悪業は単に不幸を呼び寄せるだけでなく、
その後の、不幸な環境から来る自分のマイナスの行動と、さらなるその因果すら決定してしまうのです。

悪業実施→不幸→悪業実施→不幸→悪業実施・・・

という、負のデフレスパイラルです。

単純に、一回の悪業は一回の不幸でチャラにするということにはならないのです。




そして、このことはもう一つの重要な定義が導き出されます。




それは、次回に続きます。


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