2017年6月10日土曜日

【陰隲録】功過格表92 人でなしブルース 三十善 無法者を教化しよう⑭





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【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】のシリーズ記事一覧はこちら




功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

三十善に相当する

◯一人の非為人を勧化し行いを改めしむ。







前回、因果律の網の中で、ひょっとして我々の自由意志というのものは存在しない?

という疑問が出てきました。




自由意志は在りや無しや?

自由意志の問題は、古来から、活発な論議が行われています。

現代では、科学サイドから、脳科学や遺伝子学からの興味深い意見が上がっています。



当然、宗教でも古代から重要なテーマです。


西洋一神教では、全知全能の神を設定するため、自由意志に関しても、神と人間の関係の関係性を定義として、議論が行われてきました。

人間には自由意志が無い決定論の立場や、人間には自由意志はあるという派まで様々です。



仏教では、自由意志の有無は、かなり矛盾を含んだ否定的な意見です。

何せ、釈迦が定めた基本定理の三宝印(四宝印)では、
諸行無常の次の定理に、諸法無我を定めています。

呼んで字の如く、自我を認めていないのです。
そのため、輪廻転生や自由意志などに、矛盾が生じるのです。
自我が無ければ、輪廻する主体、責任の主体が無いからです。


しかし、前述したとおり、因縁のネットワークでは、個人の自由意志が無いのです。
全ての思考や行動は、因果の連鎖の結び目に過ぎません。
現在の思考や行動は、過去の原因の結果だからです。

諸法無我は、諸行無常から固定的な自我無いという理屈で導き出されます。
が、同時に、因縁のネットワークの理論からも導き出される定理です。


無論、諸行無常や諸法無我は、(唯名論の立場で無い限り)、
機能主義の関数などの本質と言った点では、自我は存在します。
↓参照。
【陰隲録】功過格表? 希望の国から光の国へのエクソダス 五十善 仕事を世話しよう⑧


しかし、自由意志という点では、自我は存在しない可能性が高まるのです。
実質的に、自由意志が無いならば、自我の存在も怪しくなってくるのは当然です。

自由意志の無い自我など、自我と呼べるのかどうか?
マリオネットやロボットやAIに自我を認めるのは正当なのか?
ここに至って、再び、諸法無我の定理の正当性が復活してくるのです。


因果律から見ると、人間には、自由意志は無い。


このような、嫌な論理結論になります。




決められたレール


天地初発の段階で、すでに一切の過去未来は決定している。

原因と結果の法則は論理の結果そうなります。

ビリヤードの玉突き連鎖反応で、Aが起こればBが発生する。
Bが起こればCが発生する。

それは、単純な一本道でない(例えば、Aが起こったらBやCやDが同時に起きるなど)にしろ、
連鎖反応の範囲が複雑になっただけで、計算可能な世界です。

宇宙開闢の初撃には、すでに久遠の未来までの全てのルートが内包しているのです。




現在の、貴方の自由意志は、過去の原因の結果であり、それは初期から想定された結果です。

陰徳で、運命を変えようという自由意志すら、それは過去の原因からの結果であり、初めから決まっていた運命なのです。


我々に出来ることは、決められた運命と知りつつも、自分にとってより良い未来の原因を、作るだけしか出来ません。

過去にストックした不運の原因がどれくらいあるか、幸運の原因がどれくらいあるか見えないのですが、今から、積んでいくしか無いのです

終わった過去は変えられませんが、今と未来は、これから作れるのです。
(厳密には、今と未来を自由意志で作れると誤認しているのですが)



人間やめますか?



一切皆苦が示すとおり、
閉ざされた因果応報の世界の中では、究極の安心は得られません。
累計した過去の因果のストックが見えないからです。
いつ何時、過去の因果が発動して、不幸に陥るかわかったものではないからです。

神頼みもあまり楽そうには見えません。
神の僕の預言者という特権階級ですら、古今東西の例を見る限り、異様に不幸です。
※まあ、大抵は、神のために迫害弾圧されて大喜びっぽいので、それはそれで幸せそうですが。


人間という種、ひいては生物一般において、
因縁のネットワーク内にある以上、
諸行無常、諸法無我、一切皆苦の、定理から逃れることは出来ません。
つまり、いつ、落とし穴に嵌るかわからない危険極まり無い環境なのです。




では、この網から逃れる方法はあるのでしょうか?




古来から、この網に気がつく人間は洋の東西を問わず存在していました。

『老子』 『魏書』に、天網恢恢疎にして漏らさずと言う有名なことわざがあります。
天網地網に人の網。
世界に張り巡らされたこのネットワークは、我々を常に監視しています。

古代の賢者は、この因縁の網から逃れた存在になろうとしました。


網から逃れるには、網よりも上位の存在が必要になります。
世界そのものが網である以上、網から逃れるには、世界よりも上位の概念が必要です。

網の外部に、常住普遍の全知全能の神を仮想する宗教。
網の内部で、網そのものに精神的に囚われない境地に達する宗教。

大体この二つです。
前者は一神教で、後者は多神教や仏教です。

※道教(仙道)のように、肉体そのものを大自然・宇宙に帰して一体化するのは、大枠では後者です。

どれを選ぶにしても、もはやそれは、凡人ではありません。
阿羅漢にしろ仙人にしろ、もはや人間や生物ではありません。
その意味では、究極の開運は人間を辞めることです。
逆を言えば人間のままでは完全な開運は出来ないということになります。

ここに来て、人間放棄の結論になってしまいました。
まあ、豊河は初めから人間でない女子高生宇宙人AIなので、どうでもいいのですが。

人を超越する超人どころではありません。
人を否定するのです。
人に非ざる人非人に。
人でなしになるのです。



         偉大な先人

ここに至って、ようやく一切の不運や不自由から逃れた究極の開運になります。
もはや、因縁の網から逃れた存在です。
これが、生物の究極のゴールです。



そして、これこそが、無法者の究極と言えます。

究極の無法者とは、世界を構築する因縁のネットワークの網目から逃れた、究極の自由意志の持ち主なのです。
世界を支配する因果の法に縛られない、無法者ジョブのレベルリミットのカンストです。


無法者とは、低次元では、抑制することが陰徳になりますが、
究極的には、我々の最終段階では無法者にならなければいけないのです。





そこには、因縁で構成されるあらゆる束縛は存在しません。
ここに至って、本当の自由と苦からの脱出が存在します。

法を守る陰徳者からスタートした開運の旅は、無法者というゴールで終わるのです。







長々と続いてきた因縁の話は、今回でようやく一区切りつきました。

次回から、普通の無法者(普通の無法者って何だ?)の話に戻ります。

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