2017年6月14日水曜日

【陰隲録】功過格表96 平和のためには戦争をするという自己矛盾 三十善 無法者を教化しよう⑱







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はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)



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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。

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功格五十条(善行のプラス50項目)
・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

三十善に相当する

◯一人の非為人を勧化し行いを改めしむ。






無法者の種類の二つ目。比較衡量の問題の続きです。






穢れ仕事



生きていくには、特に上に立つものは、手を汚す必要があります。
正当防衛だろうが、相手に暴力を振るう必要があるからです。


この時に、戒律は世俗の論理と、衝突します。
殺す無かれと、西洋でも東洋でも、戒律は命じています。
基本、暴力禁止なのです。

しかし、そんなことを守っていたら秩序は保てません。
暴力が無い統治機関など、最低の統治システムです。
存在すら出来ません。

さらに、このブログの眼目である陰徳ポイント的にはどうなるのでしょうか?
敵国の人間を百万人殺して、一千万人を助けた場合、陰徳ポイントはどうなるのか?

※原爆投下のアメリカ側のロジックとして、原爆を投下しなかった場合、日本本土で地上戦が行われ数百万人の被害が出たというのがあります。

さらに、戦争に勝った場合はまだしも、負けた場合はどうなるのか?
全てが無駄になってしまいます。
残ったのは、百万人殺した陰徳マイナスポイントと、戦犯のレッテルです。

割に合わないことおびただしいのです。
かと言って、その任務を逃げていたら、祖国は戦争に負けてしまいます。
誰かが、この汚れ仕事を、やらなければならないのです。

まあ、世の中には適性と言うものがありますので、大量殺人しても、快楽を覚える奇特な方もいらっしゃいます。
そういう方にはむしろ天職というものですが、結局、陰徳ポイントはどうなるのか?

本人が罪悪感が無ければ、陰徳ポイントマイナスにならないのか、あっても、天命として罪はチャラになるのか?


自己犠牲


さらに、この汚れ仕事をすることは、自己犠牲扱いになるのか?

一般に、自己犠牲は、他者や大義のために自分の利益を毀損する行為です。
有名どころでは、イエスの全人類の罪を肩代わりした話です。

しかし、他者や大義のために、汚れ仕事をすることも、自己犠牲になるのか?という問題が生じます。

「自分ひとりが罪を背負うことで、みんなが幸せになれるのなら・・・私は地獄に堕ちよう」

この自己陶酔のヒロイックなセリフは、言ってること自体は、イエスと同じです。
しかし、やってることは、比較衡量で、大の虫を生かすために小の虫を殺す、悪業のカルマです。

イエスと彼らがやっていることは、同じなのか?それとも別なのか?

また、大義無しに大量殺人した場合と違いはあるのか?
動機や大の虫を生かした現象の有無という違いがあれば、やったことは同じでも、何かが違うのか?

自己犠牲で任務に従事して、戦争に負けて無駄になった場合では、単に、大量殺人のカルマを背負うだけなのか?


謎は深まるばかりです。







上記のように人間社会で生きていくうちの「必要悪」に関する矛盾は、社会生活のシステムの中では、古今東西、絶対に解消されません。


厳密に言えば、はっきり矛盾解消を、断言しているのは、宗教です。
逆に言えば、根拠の無い意見をのたまう宗教くらいしか、断言できないのです。

参考に、ちょっとそれを見てみましょう。

無法者の存在意義を3つに別れていてさらに、サブで分類するのは、混乱の元なのですが、やっぱり、宗教的には突き詰めれば、3つくらいあります。



①サーチアンドデストロイ(見敵必殺)派。
 悪を殺すのは正義。むしろ、積極的に殺せ。という過激派。
 異端、異教徒、悪魔崇拝は、皆殺しだという、一神教系に多い思考法。

 
②全てを許そう派。
 輪廻転生の中で、役割を演じて、学んでいく。
 どんな悲惨な行為の加害者でも被害者でもそれは学びであって、罪ではない。という、穏健派。
 一元論的な境地を重視する多神教的宗教に多い。現代のスピリチュアル系もこれ。
 大乗仏教の空や、キリスト教のアガペー(無条件の愛)もこれに近くなることがある。
  

③エスケープ戒律原理主義派。
 どんな事情があっても戒律は絶対守るマン派。
 正当防衛も許さない原理主義者。
 在家はゆるく戒律を守るレベルだからともかく、プロの戒律を徹底すると、
 普通に社会で生きていけないので、遁世するしかない連中。
 山林に逃れたり、出家して集団生活になる。
 後者は、集団生活の中でまた必要悪の論理が起動し、リンチとか発生することもしばしば。
 基本的に、この世は苦界なので、現世を完全に見切っている。
 まあ、教団が大きくなると現世の栄華を追求し堕落への道を歩む。
大体、この三つです。

正直、豊河には、どれが正しいかと言うのは断言出来ません。
所詮、答えの出ない問いだからです。

どれを選ぶかは、個人の好みと縁次第です。

以前にも言いましたが、
戒(戒律)・定(瞑想)・慧(智慧)の体系は、どこの宗教でも同じです。
しかし、最終段階の慧(智慧)については、ゴールが違います。

世界について、二元論的に見る(①)か、一元論的に見る(②)か、0元論的に見る(③)かの違いです。
途中の定(瞑想)の段階で、瞑想方法と言う名の変性意識上の洗脳が違うので、ゴールが違うのです。

恐らく、どれかが正解というわけではなく、単に、世界の解釈の違いなのでしょう。
あの世と言う証明不能な物に対して、解釈が違うのです。
豚肉を料理するのに、豚しゃぶにするか、とんかつにするか、酢豚にするかの違いです。

現代社会は好きに選択出来ます。
ぜひ正解を求めて下さい。






で、無法者の種類の三つ目ですが、次回に続きます。

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